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情報ブログ③ シャネルを知る ~ココ・シャネルの人生 幼少期からマトラッセ誕生まで~
浜松市の買取専門店 リサイクルマート百蔵(ももくら)のブログをご覧頂き誠に有難う御座います。
今回は最強ブランドシャネルを作り上げた「ココ・シャネル」という人物についてみていきたいと思います。
死に至るまで自由で自立した女性を先導し鼓舞し続けたといわれる世紀の女「ココ・シャネル」とは一体どんな人物だったのか。
その時代、女性の自由には目に見えない制限があったはずです。
強さだけではここまでのブランドを作り上げることは到底不可能。
どのように生き、古い社会とどう戦っていったのか個人的にも非常に興味があります。
昨年2021年7月23日に日本で公開された映画「ココ・シャネル 時代と戦った女」の予告編では以下のように表現されていました。
最もエレガントで 最も手ごわく
最も寛大で 最も執念深い
最も象徴的で 最も謎めいている
そして誰よりも未来を見ていた
このフレーズだけでいかにすごい女性だったかを感じる事ができますね。
この映画は2019年にジャン・ロリターノ監督により製作されました。
ココ・シャネルの生涯と実像に迫った最新ドキュメンタリーとされています。
残念ながら映画館での上映は見逃してしまいましたが、DVDが発売されたら是非鑑賞してみたいと思っています。
それでは少しづつみていきたいと思います。
1. ココ・シャネルの幼少期
ココシャネル(本名:ガブリエル・ボヌール・シャネル)は1883年にフランスのソミュール地方で生まれました。
彼女が12歳の時に母親は死去し、父親は行商として出稼ぎに行っていたため、1歳年上の姉と他もう一人の姉妹とともに聖母マリア聖心会(religieuses du Saint Cœur de Marie)が運営する孤児院で育ったといいます。
孤児院で育った時の耐え難い惨めな経験については、後に伝記作家やジャーナリストたちが彼女にインタビューを行った時も一切語ることはなかったそうです。
そしてその時に習った裁縫が彼女の後の仕事に大きく関わっていきます。
その後18歳になるとオーバジーヌの孤児院を出なければならなかったため、彼女は次にムーランの町のカトリック女子寄宿舎に預けらます。
そこで6年間裁縫を学んだあと、仕立て屋に就職。その時に副業としてキャバレーで歌を歌ったりしていた時期がありました。
彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃であり、その由来には様々な言い伝えがありますが、彼女のレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」(「コケコッコー」の意)からきているという説が考えられているそうです。
それからの人生は舞台女優を目指したりいろいろ奮闘したようです。
2.マトラッセ誕生に至るまでの道のり
人生が大きく動き出したのは1909年。
資産家エティエンヌ・バルサン、実業家アーサー・カペルの支援により女性用帽子店をオープン。
その翌年の1910年には婦人用帽子職人のライセンスなどを取得し、シャネル1号店「シャネル・モード」 をパリのカンボン通りにオープンしました。
1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供でリゾート地のドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出しました。
そこで「ジャージー素材」を初めて女性用衣服に使用。
二人の姉妹はシャネルの作品のモデルを務め、毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝したようです。
立地もよくどんどん注目されていきました。
その後1915、 貴族や富裕層が集うビアリッツに本格的な店舗「メゾン・ド・クチュール」を構え、今後の成功を確信するココ・シャネル。
1918年には事業を拡大し、カンボン通りの31番地に新店舗を開店しました。
1919年までに職業を「クチュリエール」として、この店舗をメゾン・ド・クチュール(maison de couture)として登記。
現代的なブティックを目指す彼女は、1921年から、香水のほか、衣服や帽子に合ったアクセサリーを、次いでジュエリーや化粧品なども販売するように。
この時に世界で一番売れた香水「シャネル香水 N°5」のボトルが発売されました。
マリリン・モンローが愛用したことで有名な香水です。
また昨年2021年は「シャネル香水 N°5」誕生100年を記念した特別なボトルやカレンダーが登場しましたね。
その後も勢いは衰えず、敷地もさらに拡大し、1927年までに、カンボン通り23番地から31番地までの一画に相当する5件の不動産を保有したそうです。
とってもパワフルですね。
1924年~1925年にかけては香水やスキンケア商品の開発に力を入れたそうです。
1925年にはメイクアップコレクションが初めて発売されました。
事業を始めてからこの頃までは支援者もあり順調に見えたシャネルの人生ですが、ウィキにこの当時のいざこざが載っていたので以下をご参考ください。
1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドのブルジョワ(英語版)の経営陣であった。彼らは企業法人パルファム・シャネル(Parfums Chanel)を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがバデールの取り分であった。株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた。シャネルNo.5が爆発的なヒット製品となるにつれ、この契約に不満を強めたシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けることになる。彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(the bandit who screwed me)」と発言している。
いろいろな方に支援され、応援してもらえるシャネルでも経営が大きくなってくるといろいろありますね。
「私をハメた盗賊だ」とまで発言するなんて、とても悔しかったんだと思います。
ゆくゆくは長きに渡る経営権争いは法的介入をもって、1947年にやっと双方の和解が実現。
この契約のこれ以降の利益(主に戦時中)9億ドルがココシャネルに渡ることになったのです。また、今後のN°5の販売利益の2%も彼女に渡ることとなりました。
シャネルのN°5を一大看板として世界に広めたのはヴェルメテール一族であることは間違いありませんし、彼女も少なからずそう思っていたはず。
契約見直しにあたっては、経営権や利益以外の、ココシャネルの生活や身の回りに関する面でもヴェルテメール一族からの援助が決まりました。
販売利益の2%と彼女が受けられる様々なサポートにより、なんとココシャネルは世界で最も裕福な女性として記録されたこともあります。
悔しい想いもしつつ1929年、シャネルを代表するチェーンバッグの「マトラッセ」が誕生しました。
いかがだったでしょうか。
次は第二次世界大戦の頃のココ・シャネルについてみていきたいと思います。
ここまでお読みいただき有難う御座いました。
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