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情報ブログ④ シャネルを知る ~ココ・シャネルの人生 一時引退 第二次世界大戦 復帰まで~

浜松市の買取専門店 リサイクルーマート浜松南店 百蔵(ももくら)のブログをご覧いただき誠に有難う御座います。

 

少し間が空いてしまいましたが、「情報ブログ③ シャネルを知る ~ココ・シャネルの人生 幼少期からマトラッセ誕生まで~」の続きとなります。

今回はタイトルに御座いますように「一時引退 第二次世界大戦 復帰」という流れでココ・シャネルの人生を辿っていきたいと思います。

 

 

ビジネスはやはり時代の影響をよくも悪くも受けるものですね。

ココ・シャネルも一時は一部店舗を残してすべてのビジネスを閉鎖したようです。

それでは少し詳しく見ていきたいと思います。

お時間の許す方は是非お付き合いくださいませ。

 


 

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一時引退したココ・シャネル 第二次世界大戦

 

1939年に始まった第二次世界大戦の影響でシャネルはほとんどの店舗で閉店を余儀なくされました。

そして1940年代には経営から事実上の引退をします。

 

この頃シャネルはドイツ人将校や諜報機関の人物と親しくしていたことから、1944年にはシャルル・ド・ゴール率いるフランス軍に逮捕されてしまいます。

逮捕された場所は当時住んでいたとされる「ホテル・リッツ」。

なんと逮捕歴もあるんですね。驚きです。

幸いにも、かねてから友人だったイギリス首相チャーチルの計らいであっという間に釈放されますが、その後10年以上、スイスで亡命生活を送ります。

第二次大戦中のココは、ドイツのためにスパイ活動(諜報活動)をしていたのではないかなどの憶測が飛び交っています。

 

逃げるようにして亡命したスイスのローザンヌ地方での生活。

さぞ悲劇的かと思いきや、エステやスパに通ったり著名人と交流したりと華やかだったともいわれています。

 

しかしデザイナーとしての活動は難しくなり、実質的に業界から退くこととなりました。

当然シャネルの勢いも落ち、取って代わるようにイヴ・サンローランやクリスチャン・ディオールといった高級メゾンが大流行するようになります。

 

この頃シャネルは、ヴェルメテール兄弟の香水会社「パルファム・シャネル」の権利をめぐる争いをしています。

すでに世界的に有名になっていた香水「N°5」の事もあり当時その動向は注目されていたようです。

 

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ココ・シャネル復帰

 

 

結果的に争いは1947年に法的介入をもって双方の和解が成立しました。

1924年にココ・シャネルとヴェルメテールとが結んだ契約でしたが、これ以降の利益(主に戦時中)9億ドルがココシャネルに渡ることになったのです。

また、今後のNo.5の販売利益の2%も彼女に渡ることとなりました。

経営権や利益以外の、ココシャネルの生活や身の回りに関する面でもヴェルテメール一族からの援助が決まりました。

 

そしてヴェルテメール一族はココシャネルの復帰を全面的に支援し、閉鎖していたパリのブティックを再開。

昔、制作段階だったツイードスーツを「シャネル・スーツ」として発表しました。

 

しかし15年ものブランクがあったココシャネルの作品はフランスでは評価されず、No5がすでに人気だったアメリカで好評となります。

 

アメリカではマリリンモンローやジャクリーン・ケネディといった著名人がシャネル製品を愛用していたことなどもあって、一躍シャネルの人気は高まりました。

女性らしいのに実用的で動きやすいと人気がでて、シャネルスーツはアメリカでモード・オスカー賞を受賞する快挙を成し遂げました。

 

シャネルスーツとリトル・ブラック・ドレスについてWikiに説明があったので以下に引用します。

 

1923年に初めて導入された[70]シャネルのツイードスーツは快適さと実用性を追求してデザインされ、柔軟で軽いウールかモヘヤのツイード、およびジャージーかシルクの裏地のブラウスとジャケットで構成されていた。シャネルは当時のファッションで一般的だったように素材を固くしたり肩パッドを使用したりはしなかった。バストダーツを加えずに、ジャケットを地の目に沿ってカットした。こうすると、身体を素早く自由に動かすことができた。首元に適度なゆとりをもたせてネックラインをデザインし、機能的なポケットを加えた。より一層楽にするために、スカートはベルトではなく腰の周りにグログラン(英語版)ステイが付けられた。さらに重要なことは、仮縫いをするときに細部に至るまで細心の注意が払われたことである。採寸は顧客が立った状態で肩の高さで腕を組んだ姿勢で行われた。シャネルはモデルに歩き回らせ、バスの階段を登ることを想定したプラットフォームを上がらせ、車高の低いスポーツカーに乗ることを想定して体を曲げさせるテストを行った。彼女が目指したのは、シャネルのスーツを着たまま、不意に体の一部を露出することなく、女性がこれら全てをこなせるようにすることであった。顧客それぞれがスーツが快適な状態になり、日々の活動を快適かつ容易に行えるようになるまで繰り返し調整を行った。

 

リトル・ブラック・ドレス
今日でも着用されているリトル・ブラック・ドレス(LBD)のコンセプトはジャージーのスーツに続くシャネルのファッション用語への貢献としてしばしば語られる。1912年から1913年にかけて、女優シュザンヌ・オルランディ(Suzanne Orlandi)が、シャネルが制作した「白いペタルカラーが付いた黒一色のベルベットのガウン」を着た。彼女はシャネルのリトル・ブラック・ドレスを着た最初の女性の一人であった[73]。1920年、シャネルはオペラの観客を観察し、全ての女性に黒いドレスを着させることを自身に誓った[54]:92–93。

1926年、『ヴォーグ』誌のアメリカ版はシャネルのロングスリーブのリトル・ブラック・ドレスの画像を掲載し、これをガルソンヌ(garçonne、'little boy' look)と名付けた[45]。『ヴォーグ』誌は、このようなシンプルながらもシックなデザインは、センスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想し、このドレスのベーシックな輪郭を、広く普及していてやはり巷に溢れていたフォード社の自動車に例えた有名な批評を残した[74][75]。他方、この質素なデザインは男性のジャーナリストたちからの広範な批判を巻き起こした。彼らは「もはや胸はなく、もはやお腹もなく、もはやお尻もない…20世紀のこの瞬間の女性ファッションは全てを削り落とした」と文句を付けた[11]:210。このリトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。1930年代は世界恐慌の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した[76][37]:47。シャネルは昼用にウールかシェニールのリトル・ブラック・ドレス、そして夜用にサテン、クレープまたはベルベットのリトル・ブラック・ドレスを作るようになった[21]:83。ある時、シャネルは「私はあえて黒を使いました。この色はいまだに衰えていません。なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」と宣言した

 

シャネル復帰ですね。

 

それからはマトラッセのチェーンバッグやバイカラーなどシャネルの定番を次々と生み出していきました。

 

今も人気が高く価格の上がっているマトラッセなど、ここからいよいよ始まるのですね。

 

 


 

 

今回は「一時引退 第二次世界大戦 復帰」までを辿ってみました。

いかがだったでしょうか。

 

亡命中も悲観的にならず生きぬいたシャネルの底力のすごさを学ぶ事ができ、あらためてそのメンタルの強さにも驚かされました。

 

ココ・シャネルの残したたくさんの名言の中にもその強さがあらわされています。

次回はシャネルが人生を閉じるまで、そして残した数々の名言に触れてみたいと思います。

 

ここまでお読みいただき有難う御座いました。